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明治・大正期の大政治家で、1838年(天保9)2月16日佐賀城下会所小路において父信保、母三井子の長男として生まれる。幼名は八太郎。
6歳で藩校弘道館に入学して朱子学を学ぶが、葉隠(はがくれ)主義の教育に反発。1854年(安政1)16歳の時に勤皇思想を持つ枝吉神陽の義祭同盟に加わり学風改革を唱える。1856年(安政3)蘭学寮に入り洋学を学び、さらに長崎英語伝習所でアメリカ人宣教師フルベッキについて英学を学ぶ。1865年(慶応元)5月長崎に佐賀藩の英学塾致遠館が設立されると校長にフルベッキが迎えられ、大隈は副島種臣と共にその経営にあたる。
幕末の政争に際しては、尊皇攘夷派として活躍する。
明治新政府が成立すると、1868年(慶応4)3月徴士参与職・外国事務局判事(大隈30歳)に任ぜられ、長崎に勤務する。以後外国官副知事、大蔵大輔、参議、大蔵卿などの要職を歴任し、外交・財政の分野で手腕を発揮する。
1868年(明治元)12月外国官副知事(現在の外務次官)に昇進、翌年3月会計官副知事(現在の大蔵次官)を兼任、ついで同年7月大蔵大輔、民部大輔(兼任)に昇進、1870年(明治3)9月明治政府の最高機関(太政官)を構成する4参議(今の大臣)の一人となり、新政府の元も重要な地位につく。
1871年(明治4)には贋貨(偽硬貨)処分問題を解決し、大阪に造幣局を作り金本位制を導入、硬貨の形を円く一定し、四進法の「両」を廃して十進法の「円」へ通貨制度を一新する。また前島密に命じて初めて郵便事業を行う。
1872年(明治5)の1年間の業績は絢爛たるものがある。陸軍省・海軍省の設置、身分差別撤廃、義務教育制度の制定、新橋〜横浜間の鉄道設置、太陽暦を採用、国立銀行設置、徴兵令公布など。
1873年(明治6)5月大蔵省事務総裁、ついで10月大蔵卿(現在の大蔵大臣)に昇進する(大隈35歳)。
大蔵卿就任以来、地租改正・秩禄処分を断行し、殖産興業政策を進め、内外国債の整理、1880年(明治13)には会計検査院を創設するなど、資本主義発展の基礎を整備する。
大隈が大蔵卿になってから下野するまでの8年間を、大隈の「高官時代」、「大隈財政」などと呼び、大隈が最も活躍した時期といわれている。
1882年(明治15)4月立憲改進党を結成し、藩閥政治と戦い、国民に基礎を置く立憲政治の確立を目指していく。
同年10月自主独立の精神を備えた人材を育成すべく「学問の独立」を掲げて東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)を創設する。
その後、1888年(明治21)外相として欧米諸国との間に結ばれた修好通商条約(不平等条約)改正交渉に情熱を傾けるが、成功を目前に、外国人裁判官任用問題で国権論者の激しい非難に遭い、1889年(明治22)10月18日、外務省の前で国粋主義者福岡玄洋社社員来島恒喜に爆弾を投げられ右脚を失う(51歳)。条約改正交渉は志半ばで、辞職を余儀なくされる。
なお、条約改正の交渉はその後も鋭意続けられ、1894年(明治27)陸奥宗光により、日英通商航海条約の中で治外法権が撤廃、ついで1911年(明治44)小村寿太郎により関税自主権が認められ、開国50年を経て、日本は不平等条約の撤廃に成功する。
1896年(明治29)進歩党を作り、1897年(明治30)外務大臣として再入閣(松隈内閣)、農商務大臣も兼任する。
1898年(明治31)大隈の進歩党と板垣の自由党の2大民党が合同して憲政党を結成、続いて大隈を首班とするわが国最初の政党内閣(隈板内閣)が誕生する。第一次大隈内閣は党内分裂と閣内不一致のため4カ月で総辞職するが、日本の近代政治史に輝かしい足跡を残す。
その後、憲政本党総理にあったが、1907年(明治40)1月政界より一時引退し、同年4月早稲田大学総長に就任する。
また文明協会を設立して世界の名著の翻訳叢書を刊行し、『新日本』(1911)、『大観』(1918)を創刊、さらに南極探検隊(隊長白瀬中尉)後援会長に就任(1911)するなど、文化事業に尽力する。
大正初年の、第一次護憲運動がおこると再び政界に入り、1914年(大正3)第二次大隈内閣を組織する。
第一次世界大戦が勃発すると8月対独宣戦布告、1915年(大正4)には対華21カ条要求を提出。8月内閣を改造し外相を兼任したが、1916年(大正5)10月には総辞職をし、政界から完全に離れる。
晩年の大隈は、「文明の調和」という理念のもと、精力的な啓蒙活動を続け、内外の客人を相手に熱弁をふるう毎日であった。
早稲田大学の発展に貢献しつつ1922年(大正11)1月10日84歳で永眠。
英霊は東京文京区の護国寺と、佐賀市の龍泰寺に葬られている。
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