| 始まりは1616(元和2)年、李参平が有田の泉山で良質の白磁鉱(泉山陶石)を発見したことによるといわれています。 |
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| 文禄・慶長の役の時、朝鮮出兵をした大名の多くは優秀な朝鮮の陶工を連れ帰りましたが、肥前藩主・鍋島直茂もその一人で、李参平は慶長の役(1597~1598)の際、彼によって連れて来られました。李参平は初期の頃は多久安順の保護の下、現在の多久に住んで陶器を焼いていましたが、それでは満足できず、やがで磁器の原料を探す旅に出かけました。そして有田の泉山で理想的な陶器を発見して日本で初めて磁器の製作に成功したことが今の有田焼の礎となったというのが、最も有力な説です。 |
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| 泉山磁石鉱の発見以来、有田の窯業はその後数十年間で急速に発展しました。そして1643年(1646年説もあり)に初代酒井田柿右衛門が赤絵の技法を生み出します。柿右衛門は長崎に出入りしていた商人から伝え聞いた中国の赤絵の調合法を元にして、試行錯誤を繰り返しながら求める赤い色を造り出したといわれています。そしてこの赤絵技術の開発をきっかけに鍋島藩は有田に御用窯を作り、その技法を固く守りました。このような保護政策により有田地域で色絵磁器が組織的に生産されるようになったのです。 |
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| その後、色絵磁器はオランダ東インド会社を通じて東南アジア~ヨーロッパ方面に輸出されるようになりました。ちなみに有田焼が通称「伊万里」と呼ばれるようになったのは、有田地方で焼かれた磁器が伊万里の港から出荷されたことに由来しています。有田磁器のヨーロッパ方面への大量輸出が始まったのは1659(万治2)年からですが、これは当時人気があった中国磁器が王朝交代の混乱により輸出が途絶えた影響で、有田磁器が中国磁器の代替として東インド会社から注目されたためだそうです。 |
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| 白く傷のない色絵磁器が完成されたのは1660年代です。これが「柿右衛門様式」として確立しました。そして元禄年間(1688~1704)頃からは、染付素地に金彩や赤絵などの色絵を用いて豪華な装飾を施した「金襴手様式」が生産されるようになりました。金襴手様式の色絵磁器はヨーロッパでも珍重され、膨大な数の金襴手様式の色絵磁器が輸出されました。しかし1684年の展海令による中国磁器の輸出再開により有田磁器は海外市場での価格競争に敗れていき、同時に18世紀はヨーロッパでも磁器の焼成に成功して自力で需要をまかなう時代になったため、1750年代で東インド会社による有田磁器の公式輸出は途絶えてしまいました。とはいえ、有田磁器のヨーロッパへの輸出は数としては中国磁器に比較すればたいへん少ないもので、東インド会社による買い付けも多くは東南アジア・西アジア地域の需要を満たすためのものであったとされています。
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| 明和年間(1764~1772) には「古伊万里」は爛熟期に入り、有田の色絵磁器は庶民階級にまで広く流通するようになりました。しかし大量生産の時代に入って実用的な製品が主流になったため、品質は徐々に低下していきました。更に1828(文政11)年には有田皿山で起こった大火の影響で有田磁器の生産は大きな打撃を受け、美術磁器としての格調が失われる結果となってしまいました。 |
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| 江戸末期は、染付絵皿などの「古伊万里」染付の全盛期だったといえましょう。「古伊万里」染付磁器は町民や農民、漁民などの庶民生活にも広く浸透し、蛸唐草文様などを特徴とする多種多様な文様の染付磁器が生産されました。 |
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| 明治期に入ると、近代的な磁器生産が行われるようになりました。1870(明治3)年には、佐賀藩の招請によりドイツ人化学者ゴッドフリード・ワグネルが有田を訪れ、窯業化学を教え、石炭窯を築き、コバルト希釈法などを教授しました。1875(明治8)年になると深川栄左衛門が香蘭社を設立し、製陶機械を輸入するなどして磁器生産の近代化を図り、磁器輸出にも力を入れました。また明治期以降、有田焼は伝統的な磁器製作に加え、近代的な工場設備で量産磁器の生産も行うようになり、日本有数の磁器生産地としての地位を確立、現在に至ります。 |